| 2001年5月25日(金)第一回精神障害者の人権を守る集いをめぐみホームにて実施しました。 精神医療コンシューマーの坂根輝吉さんにおこしいただき、お話をうかがいました。発病の話、家族とのこと、地域で生きるしんどさなど赤裸々に語っていただきました。今回、坂根さんの許可をいただきお話いただいた分を掲載いたします。 |
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| 私のことを話します。一部分は同病者から聞いたことも混じっています。本やラジオのことも言いますが、それは記憶なので正確ではありません。 第一に、私たちの病気は自分では気づかないことです。私の場合は30歳のころ、朝仕事に出ようとしたとき玄関で倒れてしまいました。それからてんかんのような症状がひどいときは一日に3,4回もあったそうです。でも自分は意識がないのでわかりませんでした。私はとにかく体や心が疲れ、しんどいという気持ちが続くだけでした。何もする気になれないのです。この時期がいちばんつらかったです。私自身病気のセミプロです。30年前に発病し入退院を繰り返しながら、途中で10年ほど通院も薬もいらなかった期間があり、自分の病気の名前さえ知りませんでした。 |
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| そうした意味で、もっともっと多くの人たちが心の病の兆候に知識を持って欲しいと心から願わずにおれません。早期発見、早期治療が可能だとすれば、あるいは家族から「怠け者、仮病」と思われ孤立から少しでも救われるのではないでしょうか。 第二には、私自身の中にある精神障害に対する偏見と差別感です。30年前にしんどいと行った病院で心の病気だと告げられたときにもうだめだと思って死のうとしました。社会の中にある偏見と差別が私の中に充満していたのです。まだそれを克服しきれていません。 第三は、身内の反応です。私が精神病だとわかったときつれあいの親からすぐに離婚せよと言われたそうです。彼女は病気の夫を見捨てられないと断固たる決意で私を守ってくれましたが、今思い出すと私はそのことに甘えていたと思います。それからもっとも大変だったのは、私自身の親兄弟に病気のことを知らせることでした。これは本当に重荷でした。その頃私の兄姉たちが結婚する年齢でした。私は島根、奥出雲の出で、田舎では今でも身内に「気違い」が出ると、あからさまには言いませんが、親類縁者まで縁談に差し障りがあるようです。そして今私の3人の子供たちは、いわゆる「結婚適齢期」です。縁談のことなど含めて心配しています。入院中にいちばん仲良しになってくれて未来のことなど話し合った看護士さんに農園作業療法のとき「もしあなたの子どもさんが精神障害者と結婚すると言ったら、どうしますか?」とそっとたずねたら、困った表情で沈黙した後、「本当のことを言ったら、やっぱり反対するやろうな。もちろん本人たちが決めたらそれは尊重するけど・・・」と答えました。現場で毎日精神病者の世話をしている人たちの本音だと思います。それは現実なのです。偏見とか言うのではなく、実際多くの入院患者に明るい未来は見いだせない、それが現実なのだと思います。「死ななきゃ治らない」ということが冗談ではなくのしかかっているのです。 |
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| 第四に、以上のごとくでありますから、一般社会で生活するのは本当に困難です。アパートを借りる、借金をするのは保証人になってくれる人はまずいません。 そして哀れに思って影になり日なたになってくれた身内が最初に疲れきって倒れていくのです。病院の面会名簿を見ると一目瞭然です。私の病棟には40人くらいの患者がいましたが1ページのノートが一ヶ月経っても空白欄の方が多いのです。定期的に面会に来る人もいますが、それはたいがい祖父、祖母でした。本人も家族もみんな息を殺して生きています。 いわんや政府、自治体の障害者対策から見ると、私たちは社会の厄介者としてしか映らないのを身をもって感じざるを得ません。悪意だとか言うのではなく理解できないのだと思います。同病者が「今度戦争になるときは、俺達が最初に殺されるぞ」と言っていましたが、本当にそんな気がします。私たちは行政に対して怒りをもって、そして自分に対し祈りを込めてこう叫びたい、「私も生き物だ、私も人間だ!」 |
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| 第五に、30年前私は洛南病院の岡江医師から京大病院に入院するよう勧められました。河合仁先生が活躍しておられた頃で、病棟解放運動が始まったときです。そして退院すると即社会に対面せねばならず、今私が利用している「ほっとハウス」のような施設はありませんでした。まず、夫として父親として戻らねばならず、そして何よりも稼がなくてはなりませんでした。そして、しんどくなったりとか上司と喧嘩したりして仕事を転々とし、そのことが自分自身を責め、自殺を考えたり、アルコールへ逃げたりの人生でした。先程から、死ぬ死ぬと言いましたが、それは案外簡単にやって来るのです。 つい最近まで気づかなかったのですが、精神障害を病気として見るのはあくまで、ある時代のある地域の、ある社会集団で平均的精神の範囲内にいる人を健常者として、そこからはみ出した人を障害者として捉えているに過ぎないのではないでしょうか。 第六に、先々週の夜、疲れ切っているのにどうしても眠ることができずテレビが故障していたのでラジオを聞いていたら、この業界のプロであるみなさんはご存知かもしれませんが、滋賀県の止揚学園リーダーの人が話していました。50年前にこの仕事を始めたとき、障害者は座敷牢、屋根裏、土間に掘った穴の中に閉じこめられていて、思わず親に怒りを感じたが、親が言うには、「外に出したら、必ず近所の人からいじめられる、石を投げつけられるなどで、せめてこの子を守りたいがためにこうしているのだ」と言ったそうです。私自身、座敷牢などは親が障害のある子を恥じて、あるいは社会に迷惑をかけないためにあったと、なんの根拠もなく思い込んでいたことをこのとき初めて知り恥じたのです。彼はまたこんな深刻な話をしました。障害児には「出来る子」と「出来ない子」がいて、絵画や音楽に秀でている「出来る子」は21世紀にはバリアフリーとか医学科学の進歩によって今より生きやすくなるかもしれない、しかし「出来ない子」はこのままだと抹殺されるだろう。彼らに対する対策が早急に求められていると。そして障害児を守り発達させるためにはヒューマニズムでは限界があり、信仰が必要なのだ。神は天にあって人を導くのではなく、私の隣にあって命を賭して苦闘しておられると。この話も私には衝撃的でした。というのも私は経済的理由で生まれるはずの命を妻に抹殺させた経験があったからです。 |
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こんな世界の中で顔も知らない多くの市民の人たちが障害を持つ私たちの人権を守り、社会生活の厳しさから守り、大きく展開させるためにさまざまな、そして困難な無言の努力をしていただいていることに、心から感謝と友情をひしひしと感じています。私もひとつでも連帯の心をもって何事かをする決意です。4月からアルバイトも出来るようになりました。今日は私のつたない話を聞いていただいて本当にありがとうございました。最後に今日ここで発言する機会をくださった京都精神障害者の人権を守る会の多芸さん、稲谷さんに感謝します。本当にわるい人たちです。 | ||||||||||